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ロゴスフィルムについて② [ロゴスフィルムについて]

ロゴスフィルムについて、その2です。

今日はロゴスフィルムのキーワードでありますキリスト教的価値観による「弱さにある希望」という言葉について少しお話ししたいと思います。

私自身も昔は「弱さ」という言葉はマイナスの言葉のイメージで、「強さ」ということを追い求めていたと思いますし、多くの方が自分では自覚のない所でそうだと思います。しかしそれは間違いであることに気が付きました。なぜ気が付いたかと言いますと、それは障がいを抱えた方々との関わりからです。

私は日々、障がいを抱えた方との関わりから、障がいは誰にでもあるのではないかと思いました。ならば私にも。そうです、私自身も障がいがあるのです。そして、皆様にも。ただその障がいで社会で一人で生きていくことが難しい人が俗に言う「障がい」を抱えた方となると思うのですが、本当は全ての人が障がいをもっていると思います。例えば、これだけはこだわりがありどうすることができないことや、何かに依存してしまっていることなど、他人に対して自分では自覚のないところで全ての人は誰かに迷惑をかけて生活しているのではないかと思います。

それではなぜ俗に言う「障害者」と言われる方が、他人の助けによって生活している方であると一般的に思うのでしょうか?実際、社会はそうであるのでそうだとは思います。ただそれは比較の差であって、その差は実際に契約というお金が動いているので、その差は大きいというか私たち健常者とは違うという方はいらっしゃるかと思いますが、神の視点では比較の差はなく全く同じだと思います。

今回、上記の「障がい」を私は「弱さ」と置き換えてみました。

ならばなぜそのことが「希望」なのでしょうか?

聖書の言葉です。

「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」Ⅱコリント12-9

「貧しい者は幸いです。」ルカ6-20

「弱さこそ希望」であると聖書から学びました。

今日は、障がいを弱さと置き換えていますが、病気、高齢者や乳幼児など人の世話が必要な方々、実際に差別されている方々など、要するにこの社会には「ライン」というものがあり、障害者、病人、高齢者など同じ枠組みの中に入れてしまいます。それは現実的には仕方がないことかもしれませんが、本当は一人一人違う人格をもった人間であり、いとおしい愛すべき人間であります。ということは人間として生きている実感というものをすべての人は感じて生きていきたいはずです。そのことが私が思う、キリスト教的価値観による「弱さにある希望」なのでしょうか?そのことを映画を通して表現していきたいと思っています。

すみません。まだまだいろいろ言いたいことはあるのですが、なにを言っているか分からなくなってきたので、今日はこのぐらいにしておきます。誤解を生じる記載があったらお許しください。真意が伝わっていただけたら幸いです。

次回は今日書いたことをふまえて、なぜこれらのことを映画で表現するのか、お話しできたらと思っています。

最後までお読みいただいた方、ありがとうございます。



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